戦争時の障害者
2010年 08月 20日
今から25年ほど前にご本人から聞いた話なのですが、
戦時中、その障害者の方は東京で家族と暮らしていました。
空襲がはげしくなっていった頃、町内会長さんが家に来て
その方のお母さんに、「もう少し空襲がひどくなったら
これを娘さんに飲ませなさい」と牛乳瓶に入った農薬を
置いていったそうです。
空襲がひどくなれば逃げられない重度の障害をもつその方は
焼け死ぬしかないのだから、その前に農薬を飲ませてしまいなさい
ということでした。
幸いなことに、お母さんがその方に農薬を飲ませることもなく
戦争が終わりました。
平時であれば町内会長さんも農薬を持ってきたりしなかった
でしょう。しかし戦時下では常識では考えられないようなことが
起こりえるのです。
戦後、生き延びたその方は介護者を自分で確保しアパートで
一人暮らしをするようになりました。東京の鉄道に車いすでも
乗れるよう粘り強い運動を続けた方でもあります。
戦争で殺されなかったからこそ出来た人生だと思います。
(職員 タナカ)
戦時中、その障害者の方は東京で家族と暮らしていました。
空襲がはげしくなっていった頃、町内会長さんが家に来て
その方のお母さんに、「もう少し空襲がひどくなったら
これを娘さんに飲ませなさい」と牛乳瓶に入った農薬を
置いていったそうです。
空襲がひどくなれば逃げられない重度の障害をもつその方は
焼け死ぬしかないのだから、その前に農薬を飲ませてしまいなさい
ということでした。
幸いなことに、お母さんがその方に農薬を飲ませることもなく
戦争が終わりました。
平時であれば町内会長さんも農薬を持ってきたりしなかった
でしょう。しかし戦時下では常識では考えられないようなことが
起こりえるのです。
戦後、生き延びたその方は介護者を自分で確保しアパートで
一人暮らしをするようになりました。東京の鉄道に車いすでも
乗れるよう粘り強い運動を続けた方でもあります。
戦争で殺されなかったからこそ出来た人生だと思います。
(職員 タナカ)
by ikiruba
| 2010-08-20 13:55
| 今日のひとこと。
|
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